09





「…ふふ……♪ ♪」

「…………」

愛理さんがさっきからキッチンやリビングや洗面所やら自分の部屋を行ったり来たりしてる。
しかも…とっても上機嫌で…ニコニコな笑顔だ…

どうしたんだろう?

僕は毎朝の日課である観葉植物にお水をあげながらそんな愛理さんを観察してた…
しばらくするとソファに座って…クッションを抱きしめてまたニコニコと笑ってる…?

「どうしたんですか?何かいい事ありました?」

流石に気になって聞いてみた。
愛理さんが此処に来て5日目の朝の事だ。

2日目の夜にちょっとした…僕にとっては事件があって…
それからは何事も無く過ぎてるけど…

「え?…ふふ…一緒に暮らしてるんだなぁって…実感してるの ♪ ♪ 」

「は?」

「だって…キッチンには2人の食器でしょ?コーヒーカップも2人のがあって…
洗面所には2人のハブラシがあって…まるでテレビドラマみたいだし…
珱尓さんの家にあたしの部屋があって…こうやってリビングには珱尓さんがいるし…
もう嬉しくて嬉しくて……あたし幸せ ♪ ♪ 」

「……はぁ…そうですか……」

何とも可愛らしいと言えば可愛らしいのか…
こう言うのを健気と言うんだろうか…

でも…僕はそんな彼女の言葉を聞く度に…罪悪感に苛まれる……様な気がする…
そんな一途な彼女を僕は全く相手にしていないからで…

なのに…もう2度もキスをしてるのは…何故なんだろう????

「もう行かないと遅刻しますよ。愛理さん。」
「え?あ!本当だ…じゃあ先に出るね。」
「はい。」
僕にそう言われて愛理さんは慌てて時計を見ると立ち上がった。
僕は今日遅番だからいつもよりちょっと遅い出勤だ。

「僕今日帰りが遅いですから…愛理さん1人なんですから戸締りちゃんとして下さいね。
それに此処に誰かが訪ねてくるなんてありませんからチャイムが鳴っても
そう簡単に開けちゃダメですよ!ちゃんと確かめてチェーンは絶対外しちゃダメです!」

「わかってるわよ。子供じゃないんだし…」
「じゃあ行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
「あ!愛理さん……んっ!!」

呼び止めて一歩前に出た途端…
ちゅっ!っとまたキスされた!!

「ちょっ…!!愛理さんっ!!何であなたはそう……」
口を掌で押さえながら僕は身体を引いた。

「え?行ってらっしゃいのキスするんじゃないの?だから呼び止めたのかと思った。」

「…………」
本心なのか…惚けてるのか…微妙だ…

「い…今までそんな事してなかったでしょ!次やったら怒りますよ!」
「はぁ〜〜い…で?」
まったく反省していない返事……
「あ…ああ…いや…愛理さんの方が早いからって僕の事迎えになんて来なくていいですから。」
「え?そうなの?」
「やっぱり来るつもりだったんですね…!夜遅くで危ないですから絶対止めて下さい!」
「え〜折角夜のデートしようと思ってたのに……」

「僕を家で迎えて下さい。お願いします。」

そう言ってニッコリと優しく笑った。

「…!!…はいっ!!ちゃんと三つ指揃えて珱尓さんが帰って来るの待ってる!」

「三つ指まではいいですから……じゃあ約束ですよ。」
「うん。いやぁ〜ん…何だか新婚さんみたい〜〜〜♪ ♪」

「…………」

僕はそんな彼女の呟きは聞えないフリをしてお見送りの手を振って彼女を送り出した。

こんな時ちょっと対応を変えると彼女は素直に僕の言う事を聞いてくれるから助かる。
でも…それでいいのか…??
しかも3度目のキスまでされて……これからは気をつけなければ…



夜の11時近くやっと仕事が終わってお店の裏口から表通りに出た。
その途端…

「珱尓さんっっ!!!」

「うわっ!!」

かばっっと真っ正面から抱きつかれた!

「愛理さん!?」
もう僕はびっくりで…
「こんな時間にこんな所で何してるんですか?
僕の事は迎えに来なくていいって言ったじゃないですか!約束忘れたんですか?」

「き…来ちゃったっっ!!」

「来ちゃったじゃ無くてですね…」

「違くて…来ちゃったのっっ!!」

「はい?」

何だか話が噛み合ってない?




「これは一体どう言う事なのかしらね?」

「お母さんこそ一体どうしたんですか?こんな時間に急に…
来るなんて連絡無かったじゃないですか。」


家のダイニングテーブルに向かい合って座ってる。
今夜何の前触れも無くいきなり僕の母親が…夜の10時過ぎに訪ねて来た。
慌てた愛理さんが僕を呼びに来たと言うわけなんだけど…
まあ母親といて僕と話が噛みあわなくなるのを避けたらしいんだけど…
別に正直に本当の事を話せば良いだけなんだけど…
ああ…でも逆に愛理さんに変な事先に言われなくて良かったのか?

「あ!愛理さん!本当にあんな時間に女の子1人で歩いたらダメですよ。
今日は仕方ありませんが次からはちゃんと僕に連絡してからにして下さいね。」

「……!!…はい…」

リビングの入り口でこちらを伺いながら立ってる愛理さんにそう注意した。


「1番はあの娘よ。一体どう言う事?いつから同棲なんてしてるの?お母さん聞いてないわよ!」

僕がいると思って玄関を開けてお互いビックリだったらしい…
ああ…それも後で注意しとかなきゃ…確かめもしないでドアを開けるなって。

「同棲じゃないから…ちょっと事情があって下宿してるんです。」
「下宿?」
「はい。」
「こんな若い女の子と?」
「はい。連絡しなかったのは申し訳ないと思いますけど…ワザワザする事でもないかと思って。
僕もう36ですからね…自分の責任でこのくらいの事はやっていきますから。」
「……まあ…ここはあなたの家ですから…私が文句言う筋合いじゃ無いけど…
彼女のご両親は納得してるの?」
「彼女のご両親は…事情があって今は疎遠になってるんで…
それにもう自分で判断出来る歳だと思いますけど。」
「……あなたお幾つ?」
「…ハタチです…」
「愛理さんこっちに来て下さい。」
「………」

僕に言われてオズオズとリビングに入って来て僕の隣に座った。

「紹介します。浜南愛理さん…昼間はアルバイトしながら夜は夜間学校に通ってます。
事情があって住む所を提供する事になりまして…5日前から一緒に住んでます。」
「…浜南…愛理です。初めまして…珱尓さんにはお世話になって…
あたし…あ…わ…私…とっても感謝してます。」
「5日前?」
「知り合ったのはもっと前ですけどね。」
「あなた…本当にいいの?こんな歳のいったおじさんと一緒なんて?」
「…!!ちょっと…おじさんは余計でしょ?自分の息子に向かって…」
「だって…何処が良くてこんな真面目で面白くも無い男と暮らすのかしらって…
あ!だから一緒に住めるのかしら?安全牌ですもんね。」
「………お母さん…」

僕の正面に座ってニッコリと笑うのは 『鳴海 江都子』さん62歳。
生物学上でも戸籍上でもれっきしとした僕の母親だ。
なかなか結婚しない僕に呆れてる1人…
僕が結婚を前提に付き合っていた彼女がいた時は
『いつ結婚するんだ。』とせかしてたっけ…
その彼女と別れた後は『いつ孫の顔が見れるんだ』と煩かった…
でもここ1・2年あんまり言わなくなった…諦めたのかと思ったのに…

「で?いきなりどうしたんです?しかもこんな時間に?」
「ああ…家の事色々してたら遅くなっちゃって…
お父さんあなたみたいに家事器用じゃ無いから…
たった2日留守にするだけで大変なのよ。」
父は『鳴海 滋』63歳ごく普通の会社員だ。

「用は何ですか?」

きっと…ロクな事じゃないと思いますけど……

「実はね!コレよ!コレ!」
「は?」
「!!!」

嬉しそうに紙袋から取り出したのは…直ぐに判った!あの大きさに形…色…
大分前に散々見せられた記憶がある…あれは紛れもない…

「お見合い写真……ですか?」
僕は呆れ顔…
「!!!」
愛理さんはとってもビックリしてる。

「そう!よく判ったわね?」
「普通判りますよ…そんなの…まだ諦めてなかったんですか?」
「だって珱君…こっちが黙ってたらホント結婚のけの字も言わなくなって…
いくら男だからってもう36なのよ!?早くしないと相手もそれなりにお年を召した方とか…
バツイチとかになっちゃうじゃない。もしかして子持ちの人とかだってありえるでしょ?」
「そんな…大袈裟ですよ。別にいいじゃないですか…
お母さんが言う通り僕は男なんだしそんな無理して結婚にこだわらなくても…」
「だって珱君の子供見たいの!孫を抱きたいのよっ!!」
「お兄さんの子供がいるでしょ?一緒に暮らしてるんだし毎日会えるじゃないですか。」
「だってもう2人共中学生よ!大きくなっちゃって…私達の相手なんてしてくれないのよ。
私はこんなちっちゃい赤ちゃんが見たいの!」
「見たいのって言われても…困るんですけど…」

「こちらの方が…珱君の恋人だったらねぇ…まだ望みがあるのに…」

「あ…あた…私はそれで…」
今まで緊張してた彼女の顔が一瞬で輝いた。
「彼女とはそんなんじゃ無いですから!」
「!!!」
愛理さんの言葉を遮る様に話したら愛理さんが僕を睨んでプイッと横を向いた。
危ない…危ない…
お母さんに恋人宣言なんてされてたまりますか…
舞い上がって手が着けれなくなっちゃいますよ…



「本当に彼女じゃないの?」

僕のベッドでお母さんがパジャマ姿で座って床に布団を敷く僕を目で追ってる。
「だから違いますって…」
「若くていいのに…でも若すぎかしらね…あの位の子供がいたっておかしくないのに…」
「それは言い過ぎでしょ?お兄さんの所だって中学生なのに。」
「はぁ…もうよっぽどの事じゃなきゃ反対したりしないのに…」
「なんですか?その投げやりな態度は…息子に対して失礼ですよ。」

「珱君……」
何だか嫌な予感がした…
「はい?」

「できちゃった結婚でもいいからね。」

「できませんからっっ!!!」

「何よ…親孝行しなさいよ。」
「どんな親孝行ですか?」
「なんで?あの娘の事嫌いなの?そんなわけ無いわよね?
じゃなきゃ珱君が下宿だって言ったって一緒に住む訳無いし?」

変な所で親と言うモノは僕の事を分かってて……

「彼女…頑張ってるから…」
「え?頑張ってる?」
「はい…それに苦労してるのに全然そんなそぶり見せなくて…健気なんですよね…」

「…!?」
僕は気が付かなかったけどその時お母さんはうっすらと微笑んでたらしい…

「珱君…」
「はい?」
「本当はあの娘の事気に入ってるんじゃないの?」
「え?違いますよ。それに彼女は自分の事が落ち着くまでって約束ですから…」
「あら?そうなの?じゃあお見合いの件は何も問題無いわね。お話進めとくわね。」
「だから何でそうなるんです?僕はお見合いなんてしませんよ。」
「いいじゃない…気軽な気持ちでいいのよ。気に入らなきゃお断りすればいいんだから。」
「初めからそんな気持ちじゃ相手に失礼じゃないですか!
本当に結婚したい人同士でした方が良いですよ。」
「やだ…相変わらず真面目ねぇ…会ってみなきゃ分からないじゃない!
もしかしたら運命の人かもよ!珱君にとって!!」
「そんな事ありませんよ…さっき写真見ましたけど何とも思いませんでしたよ。」
まだ若い…とても可愛い感じの人だった…ような気がするけど…
「そんな事言わないで会うだけ会ってみてよ。次の土曜日だから。
ちゃんと帰って来てね!うふっ ♪」
そう言ってウインクされた…
「嫌ですよ。僕お見合いなんてする気ないですから!丁重にお断りしてくださいね。」
「え〜〜…ご近所の繋がりでお断り出来ないのにぃ〜…」
「僕は知りませんよ。勝手に話し進めてるのそちらでしょ?」

「珱君っっ!!!」

いきなり大きな声で呼ばれた。
「な…何ですか?」
「親不孝者…こんな些細な事も叶えてくれないの?老い先短い両親の願いなのに…」
「老い先って…まだ十分若いじゃ…」
「珱君っっ!!!」
「……………」

こうなると中々厄介で…もう絶対後には引かないんですよね…
普段あんまり僕に干渉しない代わりにこう言う時には何が何でも折れない…
しまいには子供の頃からの事を持ち出してこんな苦労しただの始まる…

「……はぁ…じゃあ会うだけですよ。僕は最初からお断りするの前提ですからね。」
「いいわよ。とにかくお見合いをする事が大事なんですから。
やっぱり昔から珱君は優しいわねぇ…」
「別に優しいと言うわけでは…」

普段何もしてあげて無いと言う気持ちが無かったわけじゃないけれど…
仕方ない……と言う諦めもあったし…お断りする事も最初に言ったから…


「じゃあ次の土曜日ね!」

そう言って一晩泊まった僕の母親は駅のホームで僕に見送られながら
とっても嬉しそうな笑顔のまま帰って行った…

本当にその事だけの為に来たらしい…
まあ電話じゃ断わられたらどうする事も出来ないのは分かってたからだろうと思うけど…

なんとも気分が重い……


そう言えばお見合いなんて初めてだったと今更気が付いた。