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あれから2週間…以前の記憶がないこと以外普段の生活にも困らない…
今の椎凪は物静かで落ち着いてて…凄く冷静なんだ…
最初の頃みたいにピリピリした所は 無くなって…オレには凄く優しいし…
料理も以前と同じに作ってくれるし…毎晩オレの事も抱いてくれる…
…でも…記憶が戻る気配は…ない…

「ねえ…椎凪?」
「ん?」
「もしも記憶が戻ったら今の椎凪はどうなっちゃうの?」
オレはソファでコーヒーを飲んでいる椎凪の隣に正座をして座った。
「さあ…オレにも分からない…以前の椎凪に戻るんだろ…きっと…」
何だか感心の無い言い方だ…
「椎凪は…怖くないの?」
「怖くないよ…」

それより耀君と 別れるほうが…辛いけどね…

オレは心の中でそう呟いた。
「オレ…やだな…今の椎凪に会えなくなるの…嫌だ…」
オレはその事を考えたら本当に悲しくなって きた。
「何言ってんの…オレが思い出さなきゃ話にならないだろ…?」
「そうだけど…」

だってオレ…今の椎凪も好きなんだもん…会えなくなるなんて嫌だ…

落ち込んでるオレに椎凪がそっとキスしてくれた…
優しい椎凪…今の椎凪と一緒にいたいって思う事はいけない事なのかな…
オレ…いつもの椎凪も…今の椎凪も… 好きだ…

耀君が大学に行っている時慎二君に呼び出された。
慎二君の部屋には新城君も来てた。
「どうですか?記憶…少しは思い出しました?」
「ううん…まったく。」
本当に自分でも何故何も思い出せないのか判らない…今の生活が楽しいからか…?
「でも…椎凪さん。良かったですね?もう耀君に今のあなたを隠さなくても良くなった んですから…
その事を知られるのが一番辛い事だったんでしょ?」
今のオレを知られるのが?…そうか…そうだろうな…
「でもこうやって今のあなたでも耀君と 暮らしていける…耀君も受け入れてくれたでしょう?
もういつ記憶が戻っても大丈夫ですよね?」
何もかも分かっている様に慎二君がオレに問いかける…
この時黙って聞いていた新城君が何か言いかけて止めた様に見えた。
「あなたの記憶取り戻しましょう…それともこのまま耀君と暮らします?」
一瞬耀君の笑顔が浮かんだ…でもオレは即答した。
「いや…いい…オレは記憶を取り戻したい…」

本当は今のオレのままで耀君と暮らしたい…でも今のオレは 本当のオレじゃないから…
オレじゃないオレが耀君と過ごした思い出をこのまま仕舞い込む訳にはいかないから…

「でも…今夜一晩待ってくれ…最後の夜を… 耀君と過ごしたい…」

最後の夜…いつも通りに耀君と過ごした…まだ耀君には何も伝えていない…
シャワーを浴びて耀君がパジャマ姿でソファに座る。
オレはその隣に座って寝る時まで 2人で色々な事を話すのが日課になっていた。
そして今日慎二君達と話し合った事を耀君に伝えた。

「え…?明日…」
「うん…右京って奴がオレの記憶 戻してくれるらしい…だから…」
耀君の瞳に涙が溢れてくる…オレの為に泣いてくれるのか…

「オレの事…忘れないで…いつもの椎凪に中にオレがいる事…忘れないで…」
大粒の涙が耀君の頬を伝って落ちる…
オレはそっとその涙を人差し指で拭ってあげた。
「耀君の事…思い出せなくてごめん…でもオレ耀君の事好きだ…愛してる…
思い出せないけど…わかる…愛してるよ…耀君…いつまでも…愛してるから…」

黙ったまま泣き続ける耀君にキスをして…時間を忘れるくらい2人で 愛し合った…
このまま…離れたくなかった…離れたくない…

でも…オレは…いつまでもここにはいられないと…最初からわかっていた…


椎凪に今夜が最後の 夜だと教えられた…
オレは何も言えなくて…言っても仕方の無い事だと…わかっていたから…
涙が…次々に溢れてきて…止める事が出来なかった…
椎凪に抱かれてる時もずっと泣いていた…

もう一人の椎凪…記憶が無くても…いつもと違う椎凪でも…
やっぱり…椎凪は椎凪だ…


次の日オレ達は右京と言う男の屋敷に向かった。
なんともデカイ 屋敷で圧倒された。
広い廊下を抜けるとオレだけ別の部屋に呼ばれた。
耀君は今にも泣きそうで新城君が肩を抱いて支えている。

これで本当に最後だね… 耀君…
オレは一度も振り向かずに部屋のドアを閉めた…

椎凪は一度も振り向かなかった…
これで本当にお別れなんだね…オレも大好きだったよ椎凪…
忘れないから…椎凪の事…オレ…絶対忘れないから…


通された広い部屋には男が一人大きな椅子に座って待っていた。
周りには来客用の豪華な応接セットが その椅子を取り囲むように置いてある。
その男はゆっくりと立ち上がるとオレに話しかけてきた…
「記憶喪失だって?」
そう言って軽く笑う…
「僕はその ままでいいと思うけれど…いいのかい?本当に記憶が戻っても?」
そう言ってオレを見つめた瞳は見つめられただけで全身を
凍りつかせてしまうんじゃないかと 思うほど異様な光を発していた…
身体が…緊張する…
「オレは全てを思い出したい…」
それは本心だ。
「ふーん…でも思い出さなくてもいい事も在るんじゃ ないのかい?」
ジッと覗き込まれる様に見つめられた。
「………」 
何もかも見透かしている様なこの男…
「それも…仕方の無い事かい?可愛いあの子の 為には?」
そう言ってオレに近づいてくる…

「でも…いいよ。やってあげる。 慎二君の頼みだもの…」

その男の瞳が異様な光を放ちながらオレの瞳を 射抜く様に見つめた。
オレは目を逸らす事も出来ずいつの間にか意識を失っていった…


しばらくして別の部屋に呼ばれた。
中に入ると大きめのソファに 椎凪が横になっていた…
「椎凪…!」
慌てて近寄った。椎凪は寝ているみたいで静かな息遣いでホッとした…

「自分で自然に思い出した訳では無いからね… 記憶を失ってた時の事も憶えているよ。
そう細工したんだ…面白そうだったからね。」
腕を組んだまま椎凪を見下ろして右京さんがそう言った。
「右京さん… 流石ですね。」
2人の会話を祐輔が呆れた顔で眺めてる…オレは椎凪の事が心配で仕方が無かった…

「気が付いたみたいだぞ。」
祐輔が教えてくれた。
椎凪がゆっくりと目を開ける…オレは心臓がドキドキして声が震えた…
「椎…凪?」
何とも頼りない声だ…
「耀…くん?」
「オレの事…わかる?」
「うん…オレの耀くんだ…」
「 !! 」
涙が込み上げてくる…椎凪が…いつもみたいに…オレに微笑んでくれてる…
「椎凪…」
「うん…」
「椎凪……」
「うん…」
「 し…い…なぁぁぁ……!! 」
「え…?」
何で…耀くん怒ってる?

「 椎凪のバカァっっ!! 」

ゴ ン ッ !!!

「いったーーーーーっっ!!!!」
いきなり…しかも思いっきり殴られた。
「え?なんで?なんで殴るの?しかもグーでっっ!!」
椎凪が頬を押さえながら 喚いた。
「なんで?そんなの決まってるだろっ!!オレに散々心配かけてっっ!!
オレ椎凪に忘れられてたんだぞっ!!それにオレに隠し事してただろっ?
何それっ!オレの事信じてないって事?」
少し前までの落ち込んでいた気持ちは何処かに行ってしまって
ニコニコ笑ってる椎凪を見ていたら嬉しい反面今までの怒りが込み上げてきた。
「そっ…そんな事 ないよっ!!」
なっ…何で?何でいきなりこんなに怒られるんだよ…耀くん…
「オレにも一発殴らせろよっ!こっちだって散々耀の事で心配させられたんだからなっ!」
「そんな…祐輔まで…」
オレは何気に後ろに後ずさりしながら逃げた。
バ キ ッ !!
「いってっ!!!」
それでも結局殴られた!!

「僕の所にすぐ連れて来れば良かったのに…」

右京君が慎二君に言う。
「いいんですよ。これで。」
慎二君はとってもニッコリと笑ってる。
「やっぱり ワザとか…」
祐輔が呆れた顔をした…
オレはと言うと…久しぶりの再会に感動も何も…
「うわ〜〜〜〜〜っっ!!椎凪のバカァ!!!!」
「ご…ごめんね… 耀くんっ!!…もう泣かないでよぉ……」
大泣きする耀くんを必死になってなだめていた…


右京さんに記憶を戻してもらった椎凪…
右京さんの所に 連れて行けばすぐに記憶を戻してもらえたのに慎二さんが
『隠してる椎凪さんを耀君に知ってもらうには丁度良かったんですよ。』
って言ってワザと2人で生活 させてたらしい…慎二さんらしいけど…
オレは今まで見た事のない椎凪に戸惑って泣かされて…
色々大変だったけどやっぱり椎凪は椎凪だった…
最後にはもう一人 の椎凪にも『好き』って…『愛してる』って言ってもらえた…

その日の夜…椎凪はいつもの椎凪だった…
記憶喪失だったなんて思えないほど…いつもの椎凪だった。

「 耀くーん!! 」
そう言ってオレに抱きついてくる。
「何?椎凪。」
「オレの事好き?」
「うん。好きだよ。」
「オレの事愛してる?」
「愛してるよ。」
「オレもーっっ!!」

いつもと変わらない椎凪…だからあの椎凪がいるなんて思えないんだよな…
やっぱりあの椎凪はあの時だけの椎凪 だったんだ…きっと…もう…二度と会えない…
オレはあの椎凪を思い出して小さな溜息をついた…

「オレじゃないオレの為にそういう顔…してくれてるの?」
「 えっ?! 」
そのセリフ…まさか…
「 椎凪?! 」
振り向くと記憶喪失の時の椎凪がいた!
瞳を見ればわかる…暗くて重いこの瞳は…『あっちの椎凪』だ。
「え?何?また記憶喪失になっちゃったの?え?どうしようっ!!」
オレは本気で心配して慌てた。
「違うよ…」
椎凪が優しくオレに言う…
「慎二君も言って ただろ?オレは初めからいるんだよ…耀くん…
ただずっと隠してただけ…耀くんに知られないようにね…」
「え?何で?何で隠すの?」
「このオレは好きじゃ ないから…」
辛そうに椎凪が話す…
「好きじゃない?椎凪なのに?」
「そう…このオレはね暗いの…それにあんまり人の事考えてあげられない…
すっごい イヤな人間になるから…」
「じゃあ…あのいつもの椎凪は?明るい椎凪は?」
「オレが生きていく為に明るく振舞ってるだけ…
そうしないとオレ生きていけな かったから…」
静かに目を閉じながらゆっくり話し続ける…
「ずっと辛かった…だから時々壊れそうだった…
でも耀くんと知り合ってから明るく振舞うの全然 辛くなかった…楽しかったんだ…
自然に振舞えたし…耀くんの為ならオレどんな事も出来る何も苦じゃなかった…」
「椎凪……ねぇ…椎凪?本当に記憶喪失の間の事 憶えてるの?」
「うん。耀くんに叩かれた!」
椎凪がクスッと笑ってオレにそう言った。
「!!…だっ…だってあれは椎凪が…」
「うん。オレが悪かったんだ… 色々ヒドイ事言ったりヒドイ事したりしてごめんね…
オレの事許せない?嫌いになる?」
泣きそうな椎凪…
「ううん…嫌いになんかならないよ…今が本当の椎凪 なの?」
「そう…これが本当のオレ…ただ耀くんだからこんな感じになれるけど…」
そう言って目を閉じて俯いた…
「本当は…これがオレ…」
そう言って目を 開けた椎凪はさっきよりも更に冷たい瞳でオレを見つめた…
冷たい目…でも…オレ怖くない…
オレはそっと椎凪にキスをした…
「オレの事怖くないの?」
「怖くないよ…だって全部椎凪だろ?明るい椎凪も…椎凪が嫌いな椎凪も…
人の事考える事が出来ない椎凪も…きっとオレ全部好きになるよ。」
椎凪が不安そうに オレを見つめてる…
「それに大丈夫…椎凪ならきっと自分の事好きななれるよ…
椎凪優しいもん…オレ知ってるから…」
そう言って椎凪にニッコリと笑った…

椎凪はオレに抱きついてずっと泣いていた…
今までオレに見せる事が出来なくて辛かったんだと思う…
でも…もう大丈夫…オレ…椎凪の全部が好きだから…

「…好きだよ…椎凪…これからもよろしくね…」

椎凪の耳元にそっとそう囁くと椎凪の身体がオレを抱きしめたままピクリとなった…
そしてそののままオレを 強く抱きしめると…
「…こちらこそ…」
って小さな返事が返って来た。